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大鏡 「弓争い」 現代語訳

[訳:蓬田(よもぎた)修一]

[原文]

世間(よのなか)の光にておはします殿の、一年(ひととせ)ばかり、ものを安からず思(おぼ)し召したりしよ。
いかに天道(てんたう)御覧じけむ。
さりながらも、いささか逼気(ひけ)し、御心(みこころ)やは倒(たう)させ給(たま)へりし。
朝廷(おほやけ)ざまの公事(くじ)・作法ばかりにはあるべきほどにふるまひ、
時違(たが)ふことなく勤めさせ給ひて、
内々(うちうち)には、所も置き聞こえさせ給はざりしぞかし。

[現代語訳]

世の中の光でいらっしゃる殿(藤原道長のこと)が、一年ほど、(甥の藤原伊周(これちか)に出世で先を越され)不快な思いをされていたのです。
(それを)どのように天の神がご覧になったのでしょうか。
しかしながら、少しでも気後れしたり、お心を乱されたりなさったでしょうか。
朝廷の公務や儀式においては、伊周(これちか)の下位として分相応に振る舞い、
時間に正確に間違えずお勤めになりましたが、
私生活では、まったくご遠慮申し上げなさっていませんでしたよ。

[原文]

師殿(そちどの)の南院(みなみのいん)にて、人々集めて弓遊ばししに、
この殿渡らせたまへれば、
「思ひがけずあやし」
と、中関白殿(なかのくわんぱくどの)思(おぼ)し驚きて、
いみじう饗応(きやうおう)しまうさせたまうて、
下臈(げらふ)におはしませど、前に立てたてまつりて、
まづ射させたてまつらせたまひけるに、
師殿、矢数いま二つ劣りたまひぬ。

[現代語訳]

師殿(伊周のこと)が(父藤原道隆の東三条殿の)南院で、人々を集めて弓の競射をなさったときに、
道長公が(その場に)おいでになられたので、
「思いがけず不思議なことだ」
と、中関白殿(なかのかんぱくどの 藤原道隆のこと。道長の兄)はびっくりなさって、相手に調子をあわせご機嫌をお取りになり、
道長の官位が伊周より低かったのでいらっしゃいましたが、先の順番にお立て申し上げ、
まず射させもうしあげなされたところ、
師殿(伊周のこと)の(的を当てた)矢の数が、(道長より)もう二つ負けてしまわれました。


 

[原文]

中関白殿、また御前(おまへ)に候(さぶら)ふ人々も、
「いま二度(ふたたび)延べさせたまへ」
と申して、延べさせたまひけるを、やすからず思しなりて、
「さらば、延べさせたまへ」
と仰(おほ)せられて、また射させたまふとて、仰せらるるやう、
「道長が家より、帝(みかど)・后(きさき)立ちたまふべきものならば、この矢当たれ」
と仰せらるるに、同じものを中心(なから)には当たるものかは。

[現代語訳]

中関白殿(=藤原道隆)も、また御前に仕えていた人々も、
「もう二回(勝負を)お延ばしなさい」
と申し上げ、(道長は勝負を)延べさせられたので、心穏やかでなく思って、
「それなら、お延ばしなさい」
とおっしゃられて、またお射りなさるときに、おっしゃるには、
「道長の家から、天皇や皇后がお立ちになるはずならば、この矢よ当たれ」
とおっしゃられると、同じ当たると言っても、何と的の真ん中に当たったではないですか。

[原文]

次に、師殿射たまふに、いみじう臆したまひて、御手もわななく故(け)にや、
的のあたりだに近く寄らず、無辺世界を射たまへるに、
関白殿、色青くなりぬ。
また、入道殿射たまふとて、
「摂政・関白すべきものならば、この矢当たれ」
と仰せらるるに、初めの同じやうに、的の破(や)るばかり、同じ所に射させたまひつ。

[現代語訳]

次に、師殿(=伊周)が射られたところ、大変に気後れなさって、お手も震えていたためでしょうか、
的の近くにさえいかず、見当違いの方角を射られたので、
関白殿(=藤原道隆)は、顔色が青くなってしまいました。
再び、入道殿(=道長)がお射りになろうとして、
「(私が将来)摂政・関白になるはずならば、この矢当たれ」
とおっしゃって矢を放ったところ、初めと同じように、的が破れるほどに、同じ所(=真ん中)をお射りなさいました。

[原文]

饗応し、もてはやしきこえさせたまひつる興もさめて、こと苦うなりぬ。
父大臣(おとど)、師殿に、
「何か射る。な射そ、な射そ」
と制したまひて、ことさめにけり。
今日に見ゆべきことならねど、
人の御さまの、言ひ出(い)で給ふことの趣より、かたへは臆せられ給ふなむめり。

[現代語訳]

(藤原道隆は)もてなし、歓待申し上げなさっていた興もさめて、気まずくなってしまいました。
父の大臣(=道隆)は、師殿(=伊周)に、
「どうして射るのか。射るな、射るな」
とお止めになられて、(その場は)興ざめしてしまいました。
(道長のおっしゃったことが)今日すぐに実現するのではありませんが、
道長のお態度や、おっしゃることの(強引な)様子から、いくらかは(師殿が)気後れなさったとみえます。


 


大鏡 「花山院(くわさんゐん)の出家(すけ)」 現代語訳

[訳:蓬田修一]

[古文]

次の帝(みかど)、花山院天皇と申しき。
冷泉院の第一の皇子(みこ)なり。
御母、 贈皇后宮懐子(くわいし)と申す。
永観(えいくわん)二年甲申(きのえさる)八月二十八日、位につかせたまふ。
御年十七。
寛和(くわんな)二年丙戌(ひのえいぬ)六月二十二日の夜、あさましくさぶらひしきことは、人にも知らせたまはで、みそかに花山寺(はなやまてら)におはしまして、御出家(すけ)入道(にふだう)させたまへりこそ。
御年十九。
世をもたせたまふこと二年。
その後(のち)二十二年おはしましき。

[現代語訳]

次の帝は花山院(かさんいん)天皇と申し上げました。
冷泉院の第一皇子です。
母君は贈皇后宮(ぞうこうごうぐう)懐子(かいし)と申し上げます。
永観二年八月二十八日、(花山院は)天皇に即位なされました。
御年(おんとし)十七。
寛和(かんな)二年丙犬(ひのえいぬ)六月二十二日の夜、何とも驚いたことでございますが、(花山院は)人にもお知らせにならず、こっそりと花山寺(はなやまてら)にお出ましになられ、御出家し、入道(にゅうどう)になってしまわれたのです。
御年十九(のことです)。
(天皇としての)ご在位は二年でした。
ご出家の後、二十二年間ご存命でいらっしゃいました。

[古文]

あはれなることは、おりおはしましける夜(よ)は藤壺(ふじつぼ)の上の御局(みつぼね)の小戸(こど)より出でさせたまひけるに、有明(ありあけ)の月の明かかりければ、
「顕証(けんしよう)にこそありけれ。
いかがすべらむ」
と仰(おほ)せられけるを、
「さりとて、とまらせたまふべきやうはべらず。
神璽(しんし)・宝剣(ほうけん)わたりたまひぬるは」
と粟田殿(あわたどの)のさわがし申したまひけるは、
まだ帝出でさせおはしまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮(とうぐう)の御方にわたしたてまつりたまひてければ、かへり入らせたまはむことはあるまじく思(おぼ)して、しか申させたまひけるとぞ。

[現代語訳]

しみじみと心が痛みますのは、ご退位なさりました夜、藤壺(ふじつぼ)の上の御局(みつぼね)の小さな戸からお出ましになられたとき、有明(ありあけ)の月が明るかったので、
「あまりにも明るい(丸見えで気が引ける)。
どうしたらよかろう」
とおっしゃられたのですが、
「そうはおっしゃられましても、おやめになられるわけにもまいりません。
神璽(しんし)も宝剣(ほうけん)も(すでに皇太子のもとに)おわたりになっておりますからには」
と粟田殿(あわたどの=藤原道兼・ふじわらのみちかね)がせきたて申し上げたのは、
まだ天皇がお出ましになられない前に、粟田殿がみずから、皇太子の御方にお渡し申し上げてしまわれたので、(天皇が宮中に)お帰りあそばすようなことがあってはならないことだろうと思って、こう申し上げなさったということです。

[古文]

さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月のかほにむら雲のかかりて、すこしくらがりゆきければ、
「わが出家(すけ)は成就(じやうじゆ)するなりけり」
と仰せられて、歩み出でさせたまふほどに、弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)の御文(ふみ)の、日頃破り残して御身も放(はな)たず御覧(ごらん)じけるを思し召し出でて、
「しばし」
とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の、
「いかにかくは思し召しならせおはしますぬるぞ。
ただ今過ぎば、おのづから障(さは)りも出でまうでなむ」
と、そら泣きしたまひけるは。

[現代語訳]

はっきりと明るい月の光をまぶしくお思いになっていらっしゃるうちに、月にむら雲がかかり、少し暗くなっていったので、
「わが出家は(必ず)成就することだろう」
とおっしゃられて、お歩き出されますと、弘徽殿(こきでん)の女御(にょうご)の御手紙で、普段、破り捨てず、御身から離さずに、御覧になっていた手紙を思い出されて、
「しばらく待て」
とて、(手紙を)取りにお入りになりましたそのときに、粟田殿は、
「どうしてそのようにお思いになられるのでありますか。
ただ今(この機会を)逃しては、おのずと差し障りが出てまいりましょう」
と、うそ泣きなさったのですが。


[古文]
        
さて、土御門(つちみかど)より東(ひんがし)ざまに率(ゐ)て出(いだ)だしまゐらせたまふに、晴明(せいめい)が家の前をわたらせたまへば、みづからの声にて、手をおびただしく、はたはたと打ちて、
「帝王(みかど)おりさせたまふと見ゆる天変(てんぺん)ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。
まゐりて奏(そう)せむ。
車に装束(そうぞく)とうせよ」
といふ声聞かせたひけむ、さりともあはれに思(おぼ)し召(め)しけむかし。
「且(かつ)、式神(しきがみ)一人内裏(だいり)にまゐれ」
と申しければ、目には見えぬものの戸をおしあけて、御後(うしろ)をや見まゐらせけむ、
「ただ今これより過ぎさせおはしますめり」
といらへけりとかや。
その家、土御門(つちみかど)町口(まちぐち)なれば、御道なり。

[現代語訳]
        
さて、土御門(つちみかど)を東の方へ(天皇を)お連れ出し申し上げたとき、安倍晴明(あべのせいめい 陰陽師)の家の前をお通りになりましたが、清明自身の声がして、手を激しくぱちぱちと打って、
「帝(みかど)がご退位あそばされると思われる天の異変があったが、すでに事はなってしまったとみえるようだ。
(宮中に)参上して奏上しよう。
車に支度をせよ」
といふ声をお聞きになられた、そのときの(天皇の)お心は感慨無量に思われたことでありましょう。
「とりあえず、式神(しきがみ)一人が内裏(だいり)に参上せよ」
と(清明が)申し上げると、人の目には見えない何物かが戸を押し開けて、(天皇の)御後ろ姿をお見申し上げたのでしょう、
「ただ今、ここをお通りになられているようです」
と答えたということです。
清明の家は、土御門(つちみかど)町口(まちぐち)ですので、天皇がお通りになる道であります。

[古文]

花山寺(はなやまでら)におはしましつきて、御髪(みぐし)おろさせたまひて後(のち)にぞ、粟田殿(あはたどの)は、
「まかり出でて、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内(あない)申して、かならずまゐりはべらむ」
と申したまひければ、
「朕(われ)をば謀(はか)るなりけり」
とてこそ泣かせたまひけれ。
あはれにかなしきことなりな。
日頃(ひごろ)、よく、
「御弟子(でし)にてさぶらはむ」
と契りて、すかし申したまひけむがおそろしさよ。
東三条殿(とうさんでうどの)は、
「もしさることやしたまふ」
とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武士(むさ)たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。
京のほどはかくれて、堤(つつみ)の辺(わたり)よりぞうち出でまゐりける。
寺などにては、
「もし、おして人などやなしたてまつる」
と一尺(ひとさく)ばかりの刀どもを抜きかけてぞまもり申する。
(花山院)

[現代語訳]

花山寺にご到着なられて、ご剃髪なされてからですが、粟田殿は、
「ちょっとご退出して、(父の)大臣(おとど)にも、出家前の姿をもう一度見せ、これこれと(出家する)事情を申し上げて、必ず参上しましょう」
と申し上げられたので、
「私をだましたのであったな」
と(おっしゃって)お泣きあそばされたということです。
なんともしみじみと悲しきことですよ。
日頃、(粟田殿は)よく、
「(私も出家して)お弟子として(おそばに)仕えましょう」
と約束されながら、だまし申し上げなさったのは恐ろしいことですよ。
東三条殿(ひがしさんじょうどの=粟田殿の父兼家)は、
「もしや(粟田殿が)出家なされるのかと」
と気にかけ、こんなときにふさわしい思慮分別のある人たちの中から、なんの誰それという有名な源氏の武士たちを、ご警護にそえられたということです。
(武士たちは)京の町中は隠れて、(加茂川の)堤のあたりから姿をあらわして(お供して)いったそうです。
寺などでは、
「もしや、無理じいして誰かが(粟田殿を)剃髪させ申し上げるのではないか」
と(用心して)一尺ばかりの刀を抜きかけてお守り申し上げていたということです。
(花山院)