[訳:蓬田(よもぎた)修一]
[原文]
薩摩守(さつまのかみ)忠度(ただのり)は、いづくよりや帰られたりけん、
侍(さぶらひ)五騎、童(わらは)一人(いちにん)、わが身ともに七騎取つて返し、
五条三位(ごでうのさんみ)俊成卿(しゅんぜいのきやう)の宿所におはして見給(たま)へば、
門戸を閉ぢて開(ひら)かず。
「忠度」と名のり給へば、
「落人(おちうど)帰り来たり」とて、その内騒ぎ合へり。
薩摩守馬よりおり、みづから高らかにのたまひけるは、
「別(べち)の子細候(さうら)はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。
門(かど)を開かれずとも、この際(きは)まで立ち寄らせ給へ」
とのたまへば、俊成卿、
「さることあるらん。その人ならば、苦しかるまじ。入れ申せ」
とて、門をあけて対面あり。
ことの体(てい)何となうあはれなり。
[現代語訳]
薩摩守忠度はどこから帰られたのであろうか、
侍五騎、童ひとり、そして自分自身とあわせて七騎で引き返し、
五条の三位俊成卿(=藤原俊成(としなり)。定家の父)の屋敷に来られてご覧になると、
門は閉じていて開かない。
「忠度」とお名乗りになると、
「落人が帰って来た」と言って、その内側では騒ぎ合っていた。
薩摩守は馬から降りて自ら高らかにおっしゃるのには、
「特別なわけはございません。三位殿に申し上げることがあって、忠度が帰ってまいりました。
門を開かれなくとも、そばまでお立ち寄りください」
とおっしゃると、俊成卿は、
「そうするわけもあるのだろう。その人ならば差し支えあるまい。お入れ申し上げよ」
と言って、門を開けて対面した。
その様子はすべてにつけて哀れであった。
[原文]
薩摩守のたまひけるは、
「年ごろ申し承つて後、おろかならぬ御事に思ひ参らせ候へども、
この二、三年は京都の騒ぎ、国々の乱れ、
しかしながら当家の身の上のことに候ふあひだ、
疎略(そらく)を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。
君すでに都を出(い)でさせ給ひぬ。
一門の運命、はや尽き候ひぬ。
撰集(せんじふ)のあるべき由承り候ひしかば、
生涯の面目に、一首なりとも御恩を蒙(かうぶ)らうど存じて候ひしに、
やがて世の乱れ出できて、その沙汰なく候ふ条、
ただ一身の嘆きと存ずる候(ざうら)ふ。
世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。
これに候ふ巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、
一首なりとも御恩を蒙りて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、
遠き御守りでこそ候はんずれ」
とて、日ごろ、詠み置かれたる歌どものなかに、
秀歌とおぼしきを、百余首書き集められたる巻物を、
今はとて、打つ立たれける時、これを取つて持たれたりしが、
鎧(よろひ)の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。
[現代語訳]
忠度がおっしゃるには、
「数年来、和歌のご指導をいただいてから、(和歌のことは)粗略にお思いすることはありませんが、
この二、三年は、京都での騒ぎや、国々の乱れがあり、
すべて当家(=平家)の身の上のことですので、
和歌をおろそかにはしなかったのですが、変わらず参上することもできませんでした。
わが君(=安徳天皇)はすでに都をお出になられました。
平家一門の運命は、もはや尽きました。
勅撰集の編纂があるだろうことを伺いましたので、
生涯の名誉に、一首なりともご恩を被って入れていただこうと存じておりましたが、
たちまち乱が起こって、勅撰集のご沙汰もなくなってしまったことは、
(私にとって)ただただ大きな嘆きと存じております。
世が鎮まりましたならば、勅撰集のご命令が出されることでしょう。
ここにございます巻物の中に、ふさわしいものがございましたら、
一首であってもご恩を被って入れていただけまして、草葉の陰でも嬉しいと思えましたら、
遠いあの世からあなたをお守りしたいと思います」
とおっしゃって、これまで詠みおかれた歌の中で、
秀歌と思われるものを百余首書き集められた巻物を、
今が最期の門出だと出発なさったとき、これを手に取って持ていたが、
鎧の合わせ目から取り出して、俊成卿に奉った。
[原文]
三位、これをあけて見て、
「かかる忘れ形見を賜りおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。
御(おん)疑ひあるべからず。
さても、ただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙押さへがたう候へ」
とのたまへば、薩摩守喜びて、
「今は西海(さいかい)の波の底に沈まば沈め、山野(さんや)に屍(かばね)をさらさばさらせ、憂き世に思ひ置くこと候はず。
さらばいとま申して」
とて、馬にうち乗り、甲(かぶと)の緒を締め、西を指いてぞ、歩ませ給ふ。
三位うしろを遙(はる)かに見送つて立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、
「前途(せんど)程(ほど)遠し、思ひを雁山(がんさん)の夕べの雲に馳(は)す」
と高らかに口ずさみ給へば、
俊成卿いとど名残り惜しうおぼえて、涙を押さへてぞ入り給ふ。
[現代語訳]
三位はこれを開けてみて、
「このような忘れ形見をいただきました以上は、決して粗略にはいたしません。
お疑いなさいませんように。
それにしましても、ただ今のご来訪は、風情も非常に深く、哀れもしみじみと感ぜられて、感涙を抑えきれません」
とおっしゃると、薩摩守は喜んで、
「今は西国の海の波の底に沈むのなら沈んでもよい、山野に屍を晒すなら晒してもよい。この世に思いを残すことはございません。
それでは、お別れを申し上げます」
といって、馬に乗って、兜の緒を締めて、西を目指して馬を進ませなさった。
三位は後姿をはるかに見送って立たれていると、忠度と思われる声がして、
「前途ほど遠し、思いを雁山の夕べの雲に馳す」
と、高らかに口ずさまれたので、
俊成卿はますます名残惜しくお思いになり、涙を抑えながら(屋敷の中に)お入りになる。
[原文]
その後、世静まつて、千載集(せんざいしふ)を撰ぜられけるに、
忠度のありさま、言ひ置きし言(こと)の葉(は)、
今更(いまさら)思ひ出でてあはれなりければ、
かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、
勅勘(ちよくかん)の人なれば、名字(みやうじ)をばあらはされず、
「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「読人(よみびと)知らず」と入れられける。
さざ波や 志賀(しが)の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
その身朝敵となりにしうへは、子細に及ばずといひながら、恨めしかりしことどもなり。
[現代語訳]
その後、世が鎮まって、『千載集』を編纂されたとき、
忠度のあと時のありさま、言い残した言葉が、
今さらにようの思い出されて哀れであったので、
あの巻物の中に、ふさわいしい歌はいくらもあったけれども、
天皇のとがめを受けた人であるので、名字を明らかにされず、
「故郷の花」という題で詠まれた歌一首を、「読み人知らず」として入れられた。
志賀の都は 荒れてしまったが 長等山(ながらやま)の山桜は 昔のままであることよ
その身が朝敵となってしまった以上は、とやかく言えないが、悲しく残念なことであった。