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落窪物語 「落窪(おちくぼ)の君(きみ)」現代語訳

[訳:蓬田(よもぎた)修一]

[原文]

今は昔、中納言なる人の、むすめあまた持給(もたま)へるおはしき。
大君(おほいぎみ)、中(なか)の君(きみ)には婿(むこ)取りして、
西の対(たい)、東(ひんがし)の対に、華々(はなばな)として住ませたてまつりたまふに、
三(さん)、四(し)の君(きみ)に裳(も)着せ奉(たてまつ)り給はむとて、かしづきそしたまふ。

[現代語訳]

昔、中納言の位にある人で、娘たちを大勢お持ちになっている人がいらっしゃった。
長女や次女には婿をお迎えになって、
西の対、東の対に華やかに住まわせておいでになる。
三女、四女の君の裳着(もぎ=女性の成人式)をしてさしあげようと、手を尽くして大切にお育てになる。

[原文]

また時々通ひたまひけるわかうどほり腹(ばら)の君とて、母もなき御(おほん)むすめおはす。
北の方、心やいかがおはしけむ、仕(つか)うまつる御達(ごたち)の数にだに思(おぼ)さず、
寝殿の放ち出(い)での、また一間(ひとま)なる落窪なる所の、二間(ふたま)なるになむ住ませたまひける。
君達(きんだち)とも言はず、御方(おほんかた)とは、まして言はせたまはむべくもあらず。
名をつけむとすれば、さすがに、おとどの思す心あるべしと、つつみたまひて、
「落窪の君と言へ」とのたまへば、人々もさ言ふ。

[現代語訳]

また、時々中納言がお通いになった、皇族の血筋をひく母から生まれた君(落窪の君のこと)といって、母もいない姫君がおいでになる。
北の方(中納言の妻。落窪の君の継母)は、どのようなお心であろうか(=どう思っていらっしゃのであろうか)、
お仕え申し上げている(=自分たちに仕えている)女房たちほどにもお思いにならず、
寝殿(しんでん)の放(はな)ち出(い)で(=母屋に続けて張り出した建物)の先にある落ち窪んだ二間(ふたま)に住まわせておいでになる。
姫君と呼ばせず、まして御方(おんかた)とはお呼ばせになるはずもない。
名前を付けようとすると、さすがに中納言の思惑もあるだろうと遠慮なさって
「落窪(おちくぼ)の君と言え」とおっしゃるので、人々(=女房たち)もそのように呼ぶ。

[原文]
おとども、児(ちご)よりらうたくや思しつかずなりにけむ、
まして北の方の御ままにて、はかなきこと多かりけり。
はかばかしき人もなく、乳母(めのと)もなかりけり。
ただ、親のおはしける時より使ひつけたる童(わらは)のされたる女ぞ、後見(うしろみ)とつけて使ひ給ひける。
あはれに思ひかはして片時離れず。
さるは、この君のかたちは、かくかしづきたまふ御むすめなどにも劣るまじけれど、
出で交らふことなくて、あるものとも知る人なし。

[現代語訳]

中納言も幼女のときから可愛らしくはお思いにならなかったからだろうか。
なおさら北の方のお思いのままで、(姫君は)つらいことが多かったということだ。
(姫君には)しっかりとした世話をする人もなく、乳母(めのと)もいない。
ただ、母君が生きておいでになった時から召し使っている童女で、気のきいた女を後見(うしろみ)と呼んで召し使っていた。
(姫君と後見は互いに)同情しあって片時も離れない。
とは言っても、この姫君の容姿は(北の方が)大事にされている姫君たちよりも劣るわけではないだろうに、
世間の人と交際することもなく、このような姫君がいると知る人もいない。

[原文]

やうやう物思ひ知るままに、
世の中あはれに心憂きことをのみ思されければ、かくのみぞうち嘆く。

日にそへて 憂さのみまさる 世の中に 心尽くしの 身をいかにせむ

と言ひて、いたう物思ひ知りたるさまにて、
おほかたの心ざまさとくて、
琴(こと)なども習はす人あらば、いとよくしつべけれど、誰(たれ)かは教へむ。

[現代語訳]

(姫君は)だんだんと物心が付いていくに従って、
世の中が悲しくつらいことだけだとお思いになるので、このようにばかりお嘆きになる。

日ごとに わが身のつらさが増していく 世の中で
心配の多い この身をどうしたらいいだろう

と言って、ひどくもの思いをお感じになっているようだ。
(姫君は)おおよその性質はしっかりしていて、
(弾くのが難しい)琴(きん、中国伝来の七弦の琴(こと))なども習わせる人があれば、とてもうまくなるだろうが、いったい誰が教えよう。

[原文]

母君の、六つ、七つばかりにておはしけるに、習はしおい給ひけるままに、
箏(しやう)の琴をよにをかしく弾き給ひければ、
当腹(むかひばら)の三郎君(きみ)、十ばかりなるに、琴(こと)心に入れたりとて、
「これに習はせ。」と北の方のたまへば、時々教ふ。

[現代語訳]

(亡き)母君は姫君が六、七歳になられた頃に、習わせておかれたとおりに、
(姫君は)箏(しょう)の琴(こと)をたいへん上手にお弾きになるので、
北の方の生んだ十歳ほどの三男が琴に関心を持っているといって、
「この子に習わせなさい」と、北の方がおっしゃるので時々教える。


[原文]

つくづくと暇(いとま)のあるままに物縫(ぬ)ふことを習ひければ、いとをかしげにひねり逢ひたまひければ、
「いとよかめり。ことなるかほかたちなき人は、ものまめやかに習ひたるぞよき」とて、
二人の婿の装束(さうずく)、いささかなる隙(ひま)なく、かきあひ縫はせたまへば、
しばしこそもの忙しかりしか、夜も寝(い)も寝(ね)ず縫はす。
いささか遅き時は、「かばかりのことをだに受けがてにし給ふは、何を役にせむとならむ。」と、責め給へば、
うち嘆きて、いかでなほ消え失せぬるわざもがなと嘆く。

[現代語訳]

(姫君は)物淋しく暇があるとき裁縫を習ったので、たいへん上手な手つきでお縫いになるので、
「とても結構なことのようです。格別美人でない人は、何かをまじめに習うのがよいのです。」と北の方は言って、
二人の婿の装束をすこしの暇もなく、かき集めてお縫わせになったので、
しばらくのあいだはどことなく忙しかったけれども(今は忙しいという程度を通り越して忙しく)、夜も寝ないで縫わせる。
少しでも遅いときは、「この程度のことさえ、受けることがおできにならないのでは(=やり遂げることができないのでは)、何を自分の仕事になさるつもりでしょう。」と責めなさるので、
(姫君は)「やはり、どうにかして死んでしまいたい」と嘆く。

[原文]

三の君に御裳(も)着せ奉り給ひて、
やがて蔵人少将(くらうどのせうしやう)あわせ奉り給ひて、
いたはり給ふこと限りなし。
落窪の君、まして暇なく苦しきことまさる。
若くめでたき人は多く、かやうのまめわざする人や少なかりけむ、あなづりやすくて、いとわびしければ、うち泣きて縫ふままに、

世の中に いかであらじと 思へども かなはぬものは 憂(う)き身なりけり

(第一)

[現代語訳]

(中納言は)三の君の裳着(もぎ)の式をしておあげになって、
そのまま蔵人(くろうど)の少将と結婚させ申し上げ、
蔵人の少将を限りもなく大切になさる。
(そのため=婿君がひとり増えたため)落窪の君はなおさら忙しく、苦しいことが多くなった。
若く美しい女房たちの多くは、このような手のかかる裁縫をする人は少なかったのであろうか、軽蔑されがちでひどくつらく、泣きながら縫って、

この世の中に どうにかして生き長らえたいと 思うけれども
どうにもならないのは つらいこの身であることよ

(第一)




和泉式部日記「夢よりもはかなき世の中を」 現代語訳

[訳:蓬田(よもぎた)修一]

[原文]

夢よりもはかなき世の中を、嘆(なげ)きわびつつ明かし暮らすほどに、
四月十余日(じふよひ)にもなりぬれば、
木(こ)の下暗がりもてゆく。
築地(ついひぢ)の上の草の青やかなるも、
人はことに目もとどめぬを、あはれとながむるほどに、
近き透垣(すいがい)のもとに人のけはひのすれば、
誰(たれ)ならむと思ふほどに、
故宮(こみや)に候(さぶら)ひし小舎人童(こどねりわらは)なりけり。

[現代語訳]

夢よりもはかない男女の仲を嘆き続け月日を送るうちに、
四月十日過ぎにもなってしまったので、
(緑が濃くなり)木陰がだんだんと暗くなっていく。
築地の上の草が青々としているのも、
他の人は特には目を止めないけれど、(私は)しみじみと物思いにふけりながら見ているときに、
すぐそばの透垣のところに人の気配がしたので、
誰だろうかと思っていると、
亡き宮(為尊(ためたか)親王)にお仕えしていた小舎人童(=雑用係の少年)なのだった。

[原文]

あはれにもののおぼゆるほどに来たれば、
「などか久しく見えざりつる。遠ざかる昔の名残にも思ふを。」
など言はすれば、
「そのことと候(さぶら)はでは、なれなれしきさまにやと、
つつましう候(さぶら)ふうちに、日ごろは山寺にまかり歩(あり)きてなむ。
いとたよりなく、つれづれに思ひ給(たま)うらるれば、
御(おほん)代はりにも見奉らむとてなむ、
帥宮(そちのみや)に参りて候ふ。」
と語る。
「いとよきことにこそあなれ。
その宮は、いとあてにけけしうおはしますなるは。
昔のやうにはえしもあらじ。」
など言へば、
「しかおはしませど、いと気近(けぢか)くおはしまして
『常に参るや。』
と問はせおはしまして、
『参り侍(はべ)り。』
と申し候ひつれば、
『これ持て参りて、いかが見給ふとて奉らせよ。』
とのたまはせつる。」
とて、橘(たちばな)の花を取り出(い)でたれば、
「昔の人の」
と言はれて、
「さらば参りなむ。いかが聞こえさすべき。」
と言へば、言葉にて聞こえさせむもかたはらいたくて、
何かは、あだあだしくもまだ聞こえ給はぬを、はかなきことをも、
と思ひて、

 薫る香に よそふるよりは ほとどぎす 聞かばや同じ 声やしたると

と聞こえさせたり。

[現代語訳]

しみじみと物思いにふけっていたところにやって来たので、
「どうして長い間、姿を見せなかったの。
遠ざかる昔の名残に(=亡き為尊(ためたか)親王との思い出のよすがに)あなたを見ようと思っているのに。」
などと、(取次の者に)言わせたところ、
「(特に)これといった用事もございませんでは、馴れ馴れしいようでと、
遠慮しておりますうちに、近頃は山寺を訪ねておりまして。
本当に心細く、所在ない思いが致しますので、
亡き為尊親王のかわりにお見申し上げようと、
敦道(あつみち)親王(=為尊親王の弟)のもとに参上しておりました。」
と語るので、
「たいそういいお話ですこと。
その宮は大変お上品で親しみにくくていらっしゃるようね。
昔のようにはとてもいかないでしょう。」
などと(私が)言うと、
「そうではございますが、とても親しみやすくいらっしゃって、
『(和泉式部のもとに)いつもうかがうのか。』
とお尋ねになりまして、
『参上しております。』
と(私が)申し上げましたところ、
『これをお持ちなさい。
(和泉式部は)どうご覧になるだろうかと差し上げなさい。』
とおっしゃいました。」
と言って、小舎人童が橘の花を取り出したので、
(思わず)「昔の人の」という古い歌が口ずさまれて、
「そろそろ敦道親王のところに参りましょう。
どのように申し上げましょうか」
と言うので、(普通の)文章で申し上げるのもきまりが悪くて、
何、かまうものでしょうか、(敦道親王は)浮気という評判もまだ立ってはおられないのですから、とりとめのない和歌でも(差し上げましょう)と思って、

 いただいた橘の薫る香で 亡き兄宮様をしのぶよりも ほととぎす 聞きたいものです あなたが亡き宮様と同じ声なのかと

とご返事申し上げた。




平家物語 「忠度(ただのり)の都落ち」 現代語訳

[訳:蓬田(よもぎた)修一]

[原文]

薩摩守(さつまのかみ)忠度(ただのり)は、いづくよりや帰られたりけん、
侍(さぶらひ)五騎、童(わらは)一人(いちにん)、わが身ともに七騎取つて返し、
五条三位(ごでうのさんみ)俊成卿(しゅんぜいのきやう)の宿所におはして見給(たま)へば、
門戸を閉ぢて開(ひら)かず。
「忠度」と名のり給へば、
「落人(おちうど)帰り来たり」とて、その内騒ぎ合へり。
薩摩守馬よりおり、みづから高らかにのたまひけるは、
「別(べち)の子細候(さうら)はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。
門(かど)を開かれずとも、この際(きは)まで立ち寄らせ給へ」
とのたまへば、俊成卿、
「さることあるらん。その人ならば、苦しかるまじ。入れ申せ」
とて、門をあけて対面あり。
ことの体(てい)何となうあはれなり。

[現代語訳]

薩摩守忠度はどこから帰られたのであろうか、
侍五騎、童ひとり、そして自分自身とあわせて七騎で引き返し、
五条の三位俊成卿(=藤原俊成(としなり)。定家の父)の屋敷に来られてご覧になると、
門は閉じていて開かない。
「忠度」とお名乗りになると、
「落人が帰って来た」と言って、その内側では騒ぎ合っていた。
薩摩守は馬から降りて自ら高らかにおっしゃるのには、
「特別なわけはございません。三位殿に申し上げることがあって、忠度が帰ってまいりました。
門を開かれなくとも、そばまでお立ち寄りください」
とおっしゃると、俊成卿は、
「そうするわけもあるのだろう。その人ならば差し支えあるまい。お入れ申し上げよ」
と言って、門を開けて対面した。
その様子はすべてにつけて哀れであった。

[原文]

薩摩守のたまひけるは、
「年ごろ申し承つて後、おろかならぬ御事に思ひ参らせ候へども、
この二、三年は京都の騒ぎ、国々の乱れ、
しかしながら当家の身の上のことに候ふあひだ、
疎略(そらく)を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。
君すでに都を出(い)でさせ給ひぬ。
一門の運命、はや尽き候ひぬ。
撰集(せんじふ)のあるべき由承り候ひしかば、
生涯の面目に、一首なりとも御恩を蒙(かうぶ)らうど存じて候ひしに、
やがて世の乱れ出できて、その沙汰なく候ふ条、
ただ一身の嘆きと存ずる候(ざうら)ふ。
世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。
これに候ふ巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、
一首なりとも御恩を蒙りて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、
遠き御守りでこそ候はんずれ」
とて、日ごろ、詠み置かれたる歌どものなかに、
秀歌とおぼしきを、百余首書き集められたる巻物を、
今はとて、打つ立たれける時、これを取つて持たれたりしが、
鎧(よろひ)の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。

[現代語訳]

忠度がおっしゃるには、
「数年来、和歌のご指導をいただいてから、(和歌のことは)粗略にお思いすることはありませんが、
この二、三年は、京都での騒ぎや、国々の乱れがあり、
すべて当家(=平家)の身の上のことですので、
和歌をおろそかにはしなかったのですが、変わらず参上することもできませんでした。
わが君(=安徳天皇)はすでに都をお出になられました。
平家一門の運命は、もはや尽きました。
勅撰集の編纂があるだろうことを伺いましたので、
生涯の名誉に、一首なりともご恩を被って入れていただこうと存じておりましたが、
たちまち乱が起こって、勅撰集のご沙汰もなくなってしまったことは、
(私にとって)ただただ大きな嘆きと存じております。
世が鎮まりましたならば、勅撰集のご命令が出されることでしょう。
ここにございます巻物の中に、ふさわしいものがございましたら、
一首であってもご恩を被って入れていただけまして、草葉の陰でも嬉しいと思えましたら、
遠いあの世からあなたをお守りしたいと思います」
とおっしゃって、これまで詠みおかれた歌の中で、
秀歌と思われるものを百余首書き集められた巻物を、
今が最期の門出だと出発なさったとき、これを手に取って持ていたが、
鎧の合わせ目から取り出して、俊成卿に奉った。



[原文]

三位、これをあけて見て、
「かかる忘れ形見を賜りおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。
御(おん)疑ひあるべからず。
さても、ただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙押さへがたう候へ」
とのたまへば、薩摩守喜びて、
「今は西海(さいかい)の波の底に沈まば沈め、山野(さんや)に屍(かばね)をさらさばさらせ、憂き世に思ひ置くこと候はず。
さらばいとま申して」
とて、馬にうち乗り、甲(かぶと)の緒を締め、西を指いてぞ、歩ませ給ふ。
三位うしろを遙(はる)かに見送つて立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、
「前途(せんど)程(ほど)遠し、思ひを雁山(がんさん)の夕べの雲に馳(は)す」
と高らかに口ずさみ給へば、
俊成卿いとど名残り惜しうおぼえて、涙を押さへてぞ入り給ふ。

[現代語訳]

三位はこれを開けてみて、
「このような忘れ形見をいただきました以上は、決して粗略にはいたしません。
お疑いなさいませんように。
それにしましても、ただ今のご来訪は、風情も非常に深く、哀れもしみじみと感ぜられて、感涙を抑えきれません」
とおっしゃると、薩摩守は喜んで、
「今は西国の海の波の底に沈むのなら沈んでもよい、山野に屍を晒すなら晒してもよい。この世に思いを残すことはございません。
それでは、お別れを申し上げます」
といって、馬に乗って、兜の緒を締めて、西を目指して馬を進ませなさった。
三位は後姿をはるかに見送って立たれていると、忠度と思われる声がして、
「前途ほど遠し、思いを雁山の夕べの雲に馳す」
と、高らかに口ずさまれたので、
俊成卿はますます名残惜しくお思いになり、涙を抑えながら(屋敷の中に)お入りになる。

[原文]

その後、世静まつて、千載集(せんざいしふ)を撰ぜられけるに、
忠度のありさま、言ひ置きし言(こと)の葉(は)、
今更(いまさら)思ひ出でてあはれなりければ、
かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、
勅勘(ちよくかん)の人なれば、名字(みやうじ)をばあらはされず、
「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「読人(よみびと)知らず」と入れられける。

 さざ波や 志賀(しが)の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

その身朝敵となりにしうへは、子細に及ばずといひながら、恨めしかりしことどもなり。

[現代語訳]

その後、世が鎮まって、『千載集』を編纂されたとき、
忠度のあと時のありさま、言い残した言葉が、
今さらにようの思い出されて哀れであったので、
あの巻物の中に、ふさわいしい歌はいくらもあったけれども、
天皇のとがめを受けた人であるので、名字を明らかにされず、
「故郷の花」という題で詠まれた歌一首を、「読み人知らず」として入れられた。

 志賀の都は 荒れてしまったが 長等山(ながらやま)の山桜は 昔のままであることよ

その身が朝敵となってしまった以上は、とやかく言えないが、悲しく残念なことであった。




更級日記 「あづまぢの道の果て」 現代語訳

[訳:蓬田(よもぎた)修一]

[原文]

あづまぢの道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出(い)でたる人、
いかばかりかはあやしかりけむを、
いかに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、
いかで見ばやと思ひつつ、
つれづれなる昼間、宵居(よひゐ)などに、
姉、継母(ままはは)などやうの人々の、
その物語、かの物語、光源氏(ひかるげんじ)のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、
いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでか覚え語らむ。
いみじく心もとなきままに、等身(とうしん)に薬師仏(やくしほとけ)をつくりて、
手あらひなどして、人まにみそかに入りつつ、
「京に疾(と)くあげ給(たま)ひて、物語の多く候(さぶら)ふなる、あるかぎり見せ給へ」と
身を捨てて額(ぬか)をつき祈り申すほどに、
十三になる年、上らむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所にうつる。
年ごろ遊びなれつる所を、あらはにこぼち散らして、たち騒ぎて、
日の入り際のいとすごく霧(き)りわたりたるに、車に乗るとて、うち見やりたれば、
人まには参りつつ額をつきし薬師仏の立ち給へるを
見捨て奉る、悲しくて人知れずうち泣かれぬ。

[現代語訳]

都から東国へ行く道の果ての地よりもさらに奥の方(上総(かずさ)国、今の千葉県中央部を指す)で生まれ育った私は、
どんなにか田舎っぽかっただろうのに、
どう思い始めたことだろうか、世の中に物語というものがあるというのを、
どうにかして見たいと思って、
することもなく退屈な昼間や夜遅くまで起きている時などに、
姉や継母などのような人々が、
その物語、あの物語、光源氏の有り様など、所々語るのを聞くと、
ますます読みたい気持ちは強くなるが、私の思う通りに、どうしてそらんじて語るだろうか(そんなことはしてくれない)。
大変にじれったい気持ちのまま、等身大に薬師仏の像をつくって、
手を洗い清めるなどして、人が見ていない間にこっそりと(仏間に)入って、
「早く上京させてくださって、物語がたくさんございますという、それらをありったけお見せになってください」と、
一心不乱に額(ひたい)を床につけてお祈り申し上げるうちに、
私が十三歳になる年、上京しようということで、九月三日に出発していまたちという所に移る。
長年遊び慣れた所を、外から丸見えになるほど(御簾(みす)や几帳(きちょう)などを)乱暴に取り外すなどして)あちこち壊して、(人々は荷造りのために)大騒ぎし、
日没近くになり、ぞっとするほど一面に霧が立ちこめている時に、車に乗るということで、(家に)目を向けると、
人の見ていない間に参っては額を床につけてお祈りした薬師仏の像が立っていらっしゃるのを
見捨て申し上げること、それが悲しくて、人知れず泣いてしまった。




源氏物語 「心づくしの秋風」 現代語訳

[訳:蓬田(よもぎた)修一]

[原文]

須磨には、いとど心づくしの秋風に、海は少し遠けれど、
行平中納言の、関吹き越ゆると言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、
またなくあはれなるものはかかる所の秋なりけり。

御前にいと人少なにて、うち休み渡れるに、
独り目を覚まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞き給ふに、
波ただここもとに立ちくる心地して、
涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。
琴を少しかき鳴らし給へるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、弾きさし給ひて、

 恋ひわびて なく音にまがふ 浦波は 思ふ方より 風や吹くらむ

とうたひ給へるに、人々おどろきて、めでたうおぼゆるに、
忍ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみ渡す。

[現代語訳]

須磨では、ますます物思いを募らせる秋風が吹いて、海は少し遠いけれど、
行平中納言が、「関吹き越ゆる」と詠んだという浦波が、夜ごと本当にすぐ近くに聞こえて、
またとなくしみじみとするのは、このような場所の秋なのであった。

(源氏の)御前にはとても人が少なくて、(誰もが)少し寝入っている時に、
(源氏が)ひとり目を覚まして、枕から頭をもたげて四方の激しい風をお聞きになると、
波がすぐここに打ち寄せて来るような気持ちがして、
涙が落ちたことすら気が付かないけれども、(涙で)枕が浮くほどになってしまった(=涙で枕がとても濡れてしまった)。
琴(こと)を少しかき鳴らしになられたが、自分でもとても物寂しく聞こえるので、弾くのを途中でおやめになり、

 恋しさに苦しんで (都に住んでいる人が)泣く声に聞き間違いそうな 浦波(の音)は 私のことを思っている人(紫の上)のいる方角(都)から 風が吹いているからだろうか

とおうたいになっていると、人々が目を覚まして、素晴らしいと思われて、
悲しさをこらえきれなくなって、ただ訳もなく起きて座り、みんな鼻をそっとかんでいる。