源氏物語 「廃院の怪(夕顔)」 現代語訳

[訳:蓬田(よもぎた)修一]

[原文]

宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上(まくらがみ)に、いとをかしげなる女ゐて、
「おのがいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、
かく、ことなることなき人を率(ゐ)ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」
とて、この御かたはらの人をかき起こさむとすと見たまふ。
物に襲(おそ)はるる心地して、おどろきたまへれば、火も消えにけり。
うたて思(おぼ)さるれば、太刀(たち)を引き抜きて、うち置きたまひて、右近(うこん)を起こしたまふ。
これも恐ろしと思ひたるさまにて、参り寄れり。
「渡殿(わたどの)なる宿直人(とのゐびと)起こして、
『紙燭(しそく)さして参れ』と言へ」とのたまへば、
「いかでかまからむ。暗うて」と言へば、
「あな、若々し」
と、うち笑ひたまひて、手をたたきたまへば、山彦(やまびこ)の答ふる声、いとうとまし。
人え聞きつけで参らぬに、この女君、いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。
汗もしとどになりて、我かの気色なり。
「物怖(お)ぢをなむわりなくせさせたまふ本性(ほんじやう)にて、いかに思さるるにか」
と、右近も聞こゆ。
「いとか弱くて、昼も空をのみ見つるものを、いとほし」と思して、
「我、人を起こさむ。
手たたけば、山彦の答ふる、いとうるさし。
ここに、しばし、近く」
とて、右近を引き寄せたまひて、西の妻戸に出でて、戸を押し開けたまへれば、渡殿の火も消えにけり。

[現代語訳]

宵(=夜十時ごろ)が過ぎたころ、少しご就寝なさっていると、枕元にたいへん美しい様子の女が座って、
「私がとてもすばらしい男性だとお慕い申しているのに、お訪ねくださらず、
このようにすぐれた点のない人(=夕顔のこと)をお連れなさって、ご寵愛になるのは、ほんとうに意外なことで辛いことです」
と言って、源氏のおそばの人(=夕顔のこと)を引き起こそうとする夢をご覧になる。
物に襲われるような気持ちになって目を覚ますと、灯(ひ)も消えてしまっていた。
うす気味悪く思われたので、太刀(たち)を(鞘(さや)から)引き抜いて、そばにお置きになって、右近(うこん=夕顔のお付きの侍女)をお起こしになる。
右近も恐ろしいと思っている様子でおそばに寄ってきた。
渡殿(=渡り廊下)にいる宿直の人を起こして、
「紙燭(しそく=細い松の棒で、手で持つ部分に紙を巻いた照明具)をつけて参れと言ってくれ」
とおっしゃると、
(右近が)「どうして行けましょう。暗くて」
というと、
(源氏は)「なんと、子どものような」
とお笑いになって、手をたたいて(人を呼ぶと)、こだまが返ってくる音がひどく気味が悪い。
誰も(源氏が呼んだ音を)聞きつけることができず、参る人がいないうえに、この女君(=夕顔のこと)はひどく震え取り乱して、どうしたらよかろうと思った。
汗もぐっしょりとなって、茫然自失となり生気を失った様子である。
「(夕顔は普段から)物を怖がりになるご性分で、どんなお気持ちでいらっしゃるか」
と右近も申し上げる。
(夕顔は)たいそうか弱くて、昼も空ばかりを見ていたものだから、(源氏は)かわいそうにお思いになって、
(源氏は)「私が人(=随身たち)を起こそう。
手をたたくとこだまが返ってくるのが、ひどくやかましい。
ここに、少しの間、近くにいてくれ」
と言って、右近を近くに引き寄せになられて、西の妻戸(つまど)に出て、戸を押してお開きになると、渡殿の火(=渡り廊下にともしてあった火)も消えてしまった。


 

[原文]

風すこしうち吹きたるに、人は少なくて、さぶらふ限りみな寝たり。
この院の預りの子、むつましく使ひたまふ若き男、また上童(うへわらは)一人、例の随身(ずいじん)ばかりぞありける。
召せば、御答(いら)へして起きたれば、
「紙燭さして参れ。
『随身も、弦打(つるう)ちして、絶えず声(こわ)づくれ』と仰(おほ)せよ。
人離れたる所に、心とけて寝ぬるものか。
惟光朝臣(これみつあそん)の来たりつらむは」
と、問はせたまへば、
「さぶらひつれど、仰せ言もなし。暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、まかではべりぬる」と聞こゆ。
このかう申す者は、滝口なりければ、弓弦(ゆづる)いとつきづきしくうち鳴らして、
「火あやふし」
と言ふ言ふ、預りが曹司(ざうし)の方(かた)に去(い)ぬなり。
内裏(うち)を思しやりて、
名対面(なだいめん)は過ぎぬらむ、滝口の宿直奏(まう)し今こそと、推し量りたまふは、まだ、いたう更けぬにこそは。

[現代語訳]

風が少し吹いているうえに、人気(ひとけ)が少なく、お付きの者たちはみな寝ている。
この院の留守役の子で、親しくお使いになっている若い男、ほかに殿上童(てんじょうわらわ)ひとり、そしていつもの随身しかいない。
お呼びになると、お答えになって起き上がるので、
(源氏は)「紙燭をつけて持ってまいれ。
随身も弦打ち(つるうち=魔除けのために矢をつがえない弓の弦を引いて音を出すこと)して、声を絶えず出せと言いつけよ(と院の留守役の子を通して随身に命じた)。
人気のないところで気を許して寝てなるものか。
惟光朝臣(これみつあそん)が来ていただろうがどうした」
と質問されると、
(院の留守役の子は)「おそばにいましたが、仰せごともないので、明け方にお迎えに参上しようとの旨を申し上げて、退出いたしました」
と申し上げる。
こう申し上げる者は滝口の武士なので、弓弦(ゆづる)を大変似つかわしく打ち鳴らして
「火の用心」
と言い言い、留守役の部屋のほうへ行くようである。
(源氏は)宮中をお思いやりになって、滝口の名対面(なだいめん=出勤報告)の時間はもう過ぎただろう、滝口の宿直奏(とのいもうし=点呼を受けて名乗ること)はちょうど今頃だと推測なさるのは、まだそれほど夜が更けていないからだろう。

[原文]

帰り入りて、探りたまへば、女君はさながら臥(ふ)して、右近はかたはらにうつぶし臥したり。
「こはなぞ。
あな、もの狂ほしの物怖ぢや。
荒れたる所は、狐(きつね)などやうのものの、人を脅やかさむとて、け恐ろしう思はするならむ。
まろあれば、さやうのものには脅されじ」
とて、引き起こしたまふ。
「いとうたて、乱り心地の悪(あ)しうはべれば、うつぶし臥してはべるや。
御前(おまえ)にこそわりなく思さるらめ」と言へば、
「そよ。などかうは」
とて、かい探りたまふに、息もせず。
引き動かしたまへど、なよなよとして、我にもあらぬさまなれば、
「いといたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめり」
と、せむかたなき心地したまふ。
紙燭持て参れり。
右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳(みきちやう)を引き寄せて、
「なほ持て参れ」
とのたまふ。
例ならぬことにて、御前近くもえ参らぬ、つつましさに、長押(なげし)にもえのぼらず。
「なほ持て来(こ)や、所に従ひてこそ」
とて、召し寄せて見たまへば、ただこの枕上に、夢に見えつる容貌(かたち)したる女、面影に見えて、ふと消え失(う)せぬ。
「昔の物語などにこそ、かかることは聞け」
と、いとめづらかにむくつけけれど、まづ、
「この人いかになりぬるぞ」
と思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず、添ひ臥して、
「やや」
と、おどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息はとく絶え果てにけり。

[現代語訳]

(源氏は部屋に)お帰りになって手探りをなさると、夕顔はもとのまま倒れていて、右近はそのそばにうつぶして横になっている。
(源氏は)「これはどうしたことだ。なんとも狂ったほどの恐がりではないか。荒れた所は狐などのようなものが人を恐がらせようとして、なんとなく恐ろしいと思わせるのだろう。私がいるのだから、そのような物には脅かされることはないのだ」
と言って、(右近を)引き起こされる。
(右近は)「ますます気分が悪くなっていきますので、うつぶせになっていたのでございます。夕顔様のほうがむやみに恐がっているようです」
と言えば、
(源氏は)「そう、そのことだ。どうしてこんなに」
と(夕顔を)手探りなさると、息もしていない。
ゆさぶりなさってみるが、ぐったりとして、気を失っている様子であるので、たいそう子どもみたいな人で物の怪(け)に生気を奪われてしまったのであろうと、途方にくれたお気持ちになる。
(滝口が)紙燭を持って来た。
右近も動くこともできない様子であるので、(源氏は)近くにある几帳(きちょう)をお引き寄せになって、
「もっと近くへ持って参れ」
とおっしゃる。
(滝口が貴人が女性と寝ているそばまで呼び入れられるのは)普段はないことなので、おそば近くにも参上することができない遠慮のため、長押(なげし=部屋との境目にはめてある横長の角材)にも上がれない。
(源氏は)「もっと近くへ持って来るのだ。(遠慮するのは)その場に応じてするもので、今はその必要はない」
と言ってお取り寄せになって、(夕顔を)ご覧になると、枕元に夢に見た容貌の女が幻想になって見えて、ふいに消え失せてしまった。
昔の物語などにはこうしたことは聞くけれど、めったにないことで気味が悪いけれど、まずこの人(=夕顔)がどうしてしまったのかとお思いになる気持ちで、(物の怪にとりつかれた人に近寄るのは危険であるが)自分の身がどうなるかもお構いなく、(夕顔に)寄り添って、「これこれ」と目を覚ませようとなさるけれど、ただ(からだが)どんどん冷たくなっていって、息はとっくに絶え果てている。


 

[原文]

言はむかたなし。
頼もしく、いかにと言ひ触れたまふべき人もなし。
法師などをこそは、かかる方の頼もしきものには思すべけれど。
さこそ強がりたまへど、若き御心(みこころ)にて、いふかひなくなりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱きて、
「あが君、生き出でたまへ。
いといみじき目な見せたまひそ」
とのたまへど、冷え入りにたれば、けはひものうとくなりゆく。
右近は、ただ
「あな、むつかし」
と思ひける心地みな冷めて、泣き惑ふさまいといみじ。
南殿(なんでん)の鬼の、なにがしの大臣(おとど)おびやかしけるたとひを思し出でて、心強く、
「さりとも、いたづらになり果てたまはじ。夜の声はおどろおどろし。
あなかま」
と諌(いさ)めたまひて、いとあわたたしきに、あきれたる心地したまふ。
(夕顔)

[現代語訳]

どうにも言いようがない。
頼りになる、どうしたらいいだろうとご相談できる人もいないし、法師などであったら、こんなときの頼もしい人物だとお思いになれるだろうが。
あれほど強がりをおっしゃっていたけれど、お若いことであるから、(夕顔が)何を言っても、もはやどうにもならなくなったのをご覧になると、たまらない気持ちになって、つい抱きしめて、
「あが君よ、生き返っていただきたい、ひどい目を見させないでください」
とおっしゃるけれど、すっかり冷えてしまったので、(生きている)人の感じがしなくなっていく。
右近はただ気味が悪いと思っていた気持ちがすっかりなくなってしまい、泣き乱れる様子はまことにひどいものだ。
(源氏は)南殿(なんでん)の鬼が某(なにがし)の大臣(おとど)を脅かした例をお思い出しになって、気を強く持って、
「そうは言っても、死んでしまうことはないだろう。夜中の声はおおげさに聞こえる。静かに」
とお諫(いさ)めになって、大変なあわただしさに途方にくれるお気持ちになる。
(夕顔)