源氏物語 「廃院の怪(夕顔)」 現代語訳

[訳:蓬田(よもぎた)修一]

[原文]

宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上(まくらがみ)に、いとをかしげなる女ゐて、
「おのがいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、
かく、ことなることなき人を率(ゐ)ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」
とて、この御かたはらの人をかき起こさむとすと見たまふ。
物に襲(おそ)はるる心地して、おどろきたまへれば、火も消えにけり。
うたて思(おぼ)さるれば、太刀(たち)を引き抜きて、うち置きたまひて、右近(うこん)を起こしたまふ。
これも恐ろしと思ひたるさまにて、参り寄れり。
「渡殿(わたどの)なる宿直人(とのゐびと)起こして、
『紙燭(しそく)さして参れ』と言へ」とのたまへば、
「いかでかまからむ。暗うて」と言へば、
「あな、若々し」
と、うち笑ひたまひて、手をたたきたまへば、山彦(やまびこ)の答ふる声、いとうとまし。
人え聞きつけで参らぬに、この女君、いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。
汗もしとどになりて、我かの気色なり。
「物怖(お)ぢをなむわりなくせさせたまふ本性(ほんじやう)にて、いかに思さるるにか」
と、右近も聞こゆ。
「いとか弱くて、昼も空をのみ見つるものを、いとほし」と思して、
「我、人を起こさむ。
手たたけば、山彦の答ふる、いとうるさし。
ここに、しばし、近く」
とて、右近を引き寄せたまひて、西の妻戸に出でて、戸を押し開けたまへれば、渡殿の火も消えにけり。

[現代語訳]

宵(=夜十時ごろ)が過ぎたころ、少しご就寝なさっていると、枕元にたいへん美しい様子の女が座って、
「私がとてもすばらしい男性だとお慕い申しているのに、お訪ねくださらず、
このようにすぐれた点のない人(=夕顔のこと)をお連れなさって、ご寵愛になるのは、ほんとうに意外なことで辛いことです」
と言って、源氏のおそばの人(=夕顔のこと)を引き起こそうとする夢をご覧になる。
物に襲われるような気持ちになって目を覚ますと、灯(ひ)も消えてしまっていた。
うす気味悪く思われたので、太刀(たち)を(鞘(さや)から)引き抜いて、そばにお置きになって、右近(うこん=夕顔のお付きの侍女)をお起こしになる。
右近も恐ろしいと思っている様子でおそばに寄ってきた。
渡殿(=渡り廊下)にいる宿直の人を起こして、
「紙燭(しそく=細い松の棒で、手で持つ部分に紙を巻いた照明具)をつけて参れと言ってくれ」
とおっしゃると、
(右近が)「どうして行けましょう。暗くて」
というと、
(源氏は)「なんと、子どものような」
とお笑いになって、手をたたいて(人を呼ぶと)、こだまが返ってくる音がひどく気味が悪い。
誰も(源氏が呼んだ音を)聞きつけることができず、参る人がいないうえに、この女君(=夕顔のこと)はひどく震え取り乱して、どうしたらよかろうと思った。
汗もぐっしょりとなって、茫然自失となり生気を失った様子である。
「(夕顔は普段から)物を怖がりになるご性分で、どんなお気持ちでいらっしゃるか」
と右近も申し上げる。
(夕顔は)たいそうか弱くて、昼も空ばかりを見ていたものだから、(源氏は)かわいそうにお思いになって、
(源氏は)「私が人(=随身たち)を起こそう。
手をたたくとこだまが返ってくるのが、ひどくやかましい。
ここに、少しの間、近くにいてくれ」
と言って、右近を近くに引き寄せになられて、西の妻戸(つまど)に出て、戸を押してお開きになると、渡殿の火(=渡り廊下にともしてあった火)も消えてしまった。


 

[原文]

風すこしうち吹きたるに、人は少なくて、さぶらふ限りみな寝たり。
この院の預りの子、むつましく使ひたまふ若き男、また上童(うへわらは)一人、例の随身(ずいじん)ばかりぞありける。
召せば、御答(いら)へして起きたれば、
「紙燭さして参れ。
『随身も、弦打(つるう)ちして、絶えず声(こわ)づくれ』と仰(おほ)せよ。
人離れたる所に、心とけて寝ぬるものか。
惟光朝臣(これみつあそん)の来たりつらむは」
と、問はせたまへば、
「さぶらひつれど、仰せ言もなし。暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、まかではべりぬる」と聞こゆ。
このかう申す者は、滝口なりければ、弓弦(ゆづる)いとつきづきしくうち鳴らして、
「火あやふし」
と言ふ言ふ、預りが曹司(ざうし)の方(かた)に去(い)ぬなり。
内裏(うち)を思しやりて、
名対面(なだいめん)は過ぎぬらむ、滝口の宿直奏(まう)し今こそと、推し量りたまふは、まだ、いたう更けぬにこそは。

[現代語訳]

風が少し吹いているうえに、人気(ひとけ)が少なく、お付きの者たちはみな寝ている。
この院の留守役の子で、親しくお使いになっている若い男、ほかに殿上童(てんじょうわらわ)ひとり、そしていつもの随身しかいない。
お呼びになると、お答えになって起き上がるので、
(源氏は)「紙燭をつけて持ってまいれ。
随身も弦打ち(つるうち=魔除けのために矢をつがえない弓の弦を引いて音を出すこと)して、声を絶えず出せと言いつけよ(と院の留守役の子を通して随身に命じた)。
人気のないところで気を許して寝てなるものか。
惟光朝臣(これみつあそん)が来ていただろうがどうした」
と質問されると、
(院の留守役の子は)「おそばにいましたが、仰せごともないので、明け方にお迎えに参上しようとの旨を申し上げて、退出いたしました」
と申し上げる。
こう申し上げる者は滝口の武士なので、弓弦(ゆづる)を大変似つかわしく打ち鳴らして
「火の用心」
と言い言い、留守役の部屋のほうへ行くようである。
(源氏は)宮中をお思いやりになって、滝口の名対面(なだいめん=出勤報告)の時間はもう過ぎただろう、滝口の宿直奏(とのいもうし=点呼を受けて名乗ること)はちょうど今頃だと推測なさるのは、まだそれほど夜が更けていないからだろう。

[原文]

帰り入りて、探りたまへば、女君はさながら臥(ふ)して、右近はかたはらにうつぶし臥したり。
「こはなぞ。
あな、もの狂ほしの物怖ぢや。
荒れたる所は、狐(きつね)などやうのものの、人を脅やかさむとて、け恐ろしう思はするならむ。
まろあれば、さやうのものには脅されじ」
とて、引き起こしたまふ。
「いとうたて、乱り心地の悪(あ)しうはべれば、うつぶし臥してはべるや。
御前(おまえ)にこそわりなく思さるらめ」と言へば、
「そよ。などかうは」
とて、かい探りたまふに、息もせず。
引き動かしたまへど、なよなよとして、我にもあらぬさまなれば、
「いといたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめり」
と、せむかたなき心地したまふ。
紙燭持て参れり。
右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳(みきちやう)を引き寄せて、
「なほ持て参れ」
とのたまふ。
例ならぬことにて、御前近くもえ参らぬ、つつましさに、長押(なげし)にもえのぼらず。
「なほ持て来(こ)や、所に従ひてこそ」
とて、召し寄せて見たまへば、ただこの枕上に、夢に見えつる容貌(かたち)したる女、面影に見えて、ふと消え失(う)せぬ。
「昔の物語などにこそ、かかることは聞け」
と、いとめづらかにむくつけけれど、まづ、
「この人いかになりぬるぞ」
と思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず、添ひ臥して、
「やや」
と、おどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息はとく絶え果てにけり。

[現代語訳]

(源氏は部屋に)お帰りになって手探りをなさると、夕顔はもとのまま倒れていて、右近はそのそばにうつぶして横になっている。
(源氏は)「これはどうしたことだ。なんとも狂ったほどの恐がりではないか。荒れた所は狐などのようなものが人を恐がらせようとして、なんとなく恐ろしいと思わせるのだろう。私がいるのだから、そのような物には脅かされることはないのだ」
と言って、(右近を)引き起こされる。
(右近は)「ますます気分が悪くなっていきますので、うつぶせになっていたのでございます。夕顔様のほうがむやみに恐がっているようです」
と言えば、
(源氏は)「そう、そのことだ。どうしてこんなに」
と(夕顔を)手探りなさると、息もしていない。
ゆさぶりなさってみるが、ぐったりとして、気を失っている様子であるので、たいそう子どもみたいな人で物の怪(け)に生気を奪われてしまったのであろうと、途方にくれたお気持ちになる。
(滝口が)紙燭を持って来た。
右近も動くこともできない様子であるので、(源氏は)近くにある几帳(きちょう)をお引き寄せになって、
「もっと近くへ持って参れ」
とおっしゃる。
(滝口が貴人が女性と寝ているそばまで呼び入れられるのは)普段はないことなので、おそば近くにも参上することができない遠慮のため、長押(なげし=部屋との境目にはめてある横長の角材)にも上がれない。
(源氏は)「もっと近くへ持って来るのだ。(遠慮するのは)その場に応じてするもので、今はその必要はない」
と言ってお取り寄せになって、(夕顔を)ご覧になると、枕元に夢に見た容貌の女が幻想になって見えて、ふいに消え失せてしまった。
昔の物語などにはこうしたことは聞くけれど、めったにないことで気味が悪いけれど、まずこの人(=夕顔)がどうしてしまったのかとお思いになる気持ちで、(物の怪にとりつかれた人に近寄るのは危険であるが)自分の身がどうなるかもお構いなく、(夕顔に)寄り添って、「これこれ」と目を覚ませようとなさるけれど、ただ(からだが)どんどん冷たくなっていって、息はとっくに絶え果てている。


 

[原文]

言はむかたなし。
頼もしく、いかにと言ひ触れたまふべき人もなし。
法師などをこそは、かかる方の頼もしきものには思すべけれど。
さこそ強がりたまへど、若き御心(みこころ)にて、いふかひなくなりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱きて、
「あが君、生き出でたまへ。
いといみじき目な見せたまひそ」
とのたまへど、冷え入りにたれば、けはひものうとくなりゆく。
右近は、ただ
「あな、むつかし」
と思ひける心地みな冷めて、泣き惑ふさまいといみじ。
南殿(なんでん)の鬼の、なにがしの大臣(おとど)おびやかしけるたとひを思し出でて、心強く、
「さりとも、いたづらになり果てたまはじ。夜の声はおどろおどろし。
あなかま」
と諌(いさ)めたまひて、いとあわたたしきに、あきれたる心地したまふ。
(夕顔)

[現代語訳]

どうにも言いようがない。
頼りになる、どうしたらいいだろうとご相談できる人もいないし、法師などであったら、こんなときの頼もしい人物だとお思いになれるだろうが。
あれほど強がりをおっしゃっていたけれど、お若いことであるから、(夕顔が)何を言っても、もはやどうにもならなくなったのをご覧になると、たまらない気持ちになって、つい抱きしめて、
「あが君よ、生き返っていただきたい、ひどい目を見させないでください」
とおっしゃるけれど、すっかり冷えてしまったので、(生きている)人の感じがしなくなっていく。
右近はただ気味が悪いと思っていた気持ちがすっかりなくなってしまい、泣き乱れる様子はまことにひどいものだ。
(源氏は)南殿(なんでん)の鬼が某(なにがし)の大臣(おとど)を脅かした例をお思い出しになって、気を強く持って、
「そうは言っても、死んでしまうことはないだろう。夜中の声はおおげさに聞こえる。静かに」
とお諫(いさ)めになって、大変なあわただしさに途方にくれるお気持ちになる。
(夕顔)


 

平家物語 「祇園精舎(ぎをんしやうじや)」 現代語訳


[訳:蓬田(よもぎた)修一]

[原文]

祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘の声、諸行無常(しよぎやうむじやう)の響きあり。
沙羅双樹(しやらさうじゆ)の花の色、盛者必衰(じやうしやひつすい)の理(ことわり)をあらはす。
おごれる人も久しからず。
ただ春の夜(よ)の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵(ちり)に同じ。

[現代語訳]

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ 釈迦が説法したというインドの寺)の鐘の声は、諸行無常(しょぎょうむじょう すべてのことは刻々と変化して一定ではない)の響きを持っている。
沙羅双樹(しゃらそうじゅ 沙羅は常緑の高木 双樹は四方に二本づつ生えているさま)の花の色は、盛者必衰(じょうしゃひっすい 勢いが盛んなものも必ず衰えること)の道理を表している。
おごり高ぶった人も、いつまでもおごり続けることはできない。
ただ春の夜の夢のようにはかない。
勇猛な人もついには滅びてしまう、まったく風の前の塵と同じだ。

[原文]

遠く異朝をとぶらえば、秦(しん)の趙高(てうかう)、漢(かん)の王莽(わうまう)、梁(りやう)の朱异(しうい)、唐(たう)の禄山(ろくさん)、
これらは皆、旧主先皇(きうしゆせんくわう)の政(まつりごと)にも従はず、
楽しみを極め、諫(いさ)めをも思ひ入れず、
天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、
久しからずして、亡(ばう)じにし者どもなり。

[現代語訳]

遠く外国の例をたずねてみれば、秦(しん)の趙高(ちょうこう)、漢(かん)の王莽(おうもう)、梁(りょう)の朱异(しゅい)、唐(とう)の禄山(ろくさん)、
これらは皆、かつて仕えていた主君や皇帝の政治にも従わず、
楽しみを極め、人からの忠告も心に留めることなく、
天下が乱れることも悟らず、民衆の憂いも分からなかったので、
ほどなくして、滅びてしまった者たちである。

[原文]

近く本朝をうかがふに、承平(しようへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治(へいぢ)の信頼(しんらい)、これらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、間近(まぢか)くは六波羅(ろくはら)の入道(にふだう)前太政大臣(さきのだいじやうだいじん)平朝臣清盛(たひらのあつそんきよもり)公と申しし人のありさま、伝え承(うけたまは)るこそ、心も詞(ことば)も及ばれね。

[現代語訳]

近くわが国に例を探すと、承平(しょうへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎょう)の純友(すみとも)、康和(こうわ)の義親(ぎしん)、平治(へいじ)の信頼(しんらい)、これらの人たちはおごる心も権力が盛んなことも、皆それぞれにあったけれども、ごく最近では六波羅(ろくはら)の入道(にゅうどう)前太政大臣(さきのだいじょうだいじん)平朝臣清盛(たいらのあっそんきよもり)公と申した人のおごれるありさまは、伝えお聞きすると、想像できず言葉でも言い尽くせないほどである。


 

大鏡 「弓争い」 現代語訳

[訳:蓬田(よもぎた)修一]

[原文]

世間(よのなか)の光にておはします殿の、一年(ひととせ)ばかり、ものを安からず思(おぼ)し召したりしよ。
いかに天道(てんたう)御覧じけむ。
さりながらも、いささか逼気(ひけ)し、御心(みこころ)やは倒(たう)させ給(たま)へりし。
朝廷(おほやけ)ざまの公事(くじ)・作法ばかりにはあるべきほどにふるまひ、
時違(たが)ふことなく勤めさせ給ひて、
内々(うちうち)には、所も置き聞こえさせ給はざりしぞかし。

[現代語訳]

世の中の光でいらっしゃる殿(藤原道長のこと)が、一年ほど、(甥の藤原伊周(これちか)に出世で先を越され)不快な思いをされていたのです。
(それを)どのように天の神がご覧になったのでしょうか。
しかしながら、少しでも気後れしたり、お心を乱されたりなさったでしょうか。
朝廷の公務や儀式においては、伊周(これちか)の下位として分相応に振る舞い、
時間に正確に間違えずお勤めになりましたが、
私生活では、まったくご遠慮申し上げなさっていませんでしたよ。

[原文]

師殿(そちどの)の南院(みなみのいん)にて、人々集めて弓遊ばししに、
この殿渡らせたまへれば、
「思ひがけずあやし」
と、中関白殿(なかのくわんぱくどの)思(おぼ)し驚きて、
いみじう饗応(きやうおう)しまうさせたまうて、
下臈(げらふ)におはしませど、前に立てたてまつりて、
まづ射させたてまつらせたまひけるに、
師殿、矢数いま二つ劣りたまひぬ。

[現代語訳]

師殿(伊周のこと)が(父藤原道隆の東三条殿の)南院で、人々を集めて弓の競射をなさったときに、
道長公が(その場に)おいでになられたので、
「思いがけず不思議なことだ」
と、中関白殿(なかのかんぱくどの 藤原道隆のこと。道長の兄)はびっくりなさって、相手に調子をあわせご機嫌をお取りになり、
道長の官位が伊周より低かったのでいらっしゃいましたが、先の順番にお立て申し上げ、
まず射させもうしあげなされたところ、
師殿(伊周のこと)の(的を当てた)矢の数が、(道長より)もう二つ負けてしまわれました。


 

[原文]

中関白殿、また御前(おまへ)に候(さぶら)ふ人々も、
「いま二度(ふたたび)延べさせたまへ」
と申して、延べさせたまひけるを、やすからず思しなりて、
「さらば、延べさせたまへ」
と仰(おほ)せられて、また射させたまふとて、仰せらるるやう、
「道長が家より、帝(みかど)・后(きさき)立ちたまふべきものならば、この矢当たれ」
と仰せらるるに、同じものを中心(なから)には当たるものかは。

[現代語訳]

中関白殿(=藤原道隆)も、また御前に仕えていた人々も、
「もう二回(勝負を)お延ばしなさい」
と申し上げ、(道長は勝負を)延べさせられたので、心穏やかでなく思って、
「それなら、お延ばしなさい」
とおっしゃられて、またお射りなさるときに、おっしゃるには、
「道長の家から、天皇や皇后がお立ちになるはずならば、この矢よ当たれ」
とおっしゃられると、同じ当たると言っても、何と的の真ん中に当たったではないですか。

[原文]

次に、師殿射たまふに、いみじう臆したまひて、御手もわななく故(け)にや、
的のあたりだに近く寄らず、無辺世界を射たまへるに、
関白殿、色青くなりぬ。
また、入道殿射たまふとて、
「摂政・関白すべきものならば、この矢当たれ」
と仰せらるるに、初めの同じやうに、的の破(や)るばかり、同じ所に射させたまひつ。

[現代語訳]

次に、師殿(=伊周)が射られたところ、大変に気後れなさって、お手も震えていたためでしょうか、
的の近くにさえいかず、見当違いの方角を射られたので、
関白殿(=藤原道隆)は、顔色が青くなってしまいました。
再び、入道殿(=道長)がお射りになろうとして、
「(私が将来)摂政・関白になるはずならば、この矢当たれ」
とおっしゃって矢を放ったところ、初めと同じように、的が破れるほどに、同じ所(=真ん中)をお射りなさいました。

[原文]

饗応し、もてはやしきこえさせたまひつる興もさめて、こと苦うなりぬ。
父大臣(おとど)、師殿に、
「何か射る。な射そ、な射そ」
と制したまひて、ことさめにけり。
今日に見ゆべきことならねど、
人の御さまの、言ひ出(い)で給ふことの趣より、かたへは臆せられ給ふなむめり。

[現代語訳]

(藤原道隆は)もてなし、歓待申し上げなさっていた興もさめて、気まずくなってしまいました。
父の大臣(=道隆)は、師殿(=伊周)に、
「どうして射るのか。射るな、射るな」
とお止めになられて、(その場は)興ざめしてしまいました。
(道長のおっしゃったことが)今日すぐに実現するのではありませんが、
道長のお態度や、おっしゃることの(強引な)様子から、いくらかは(師殿が)気後れなさったとみえます。


 


大鏡 「花山院(くわさんゐん)の出家(すけ)」 現代語訳

[訳:蓬田修一]

[古文]

次の帝(みかど)、花山院天皇と申しき。
冷泉院の第一の皇子(みこ)なり。
御母、 贈皇后宮懐子(くわいし)と申す。
永観(えいくわん)二年甲申(きのえさる)八月二十八日、位につかせたまふ。
御年十七。
寛和(くわんな)二年丙戌(ひのえいぬ)六月二十二日の夜、あさましくさぶらひしきことは、人にも知らせたまはで、みそかに花山寺(はなやまてら)におはしまして、御出家(すけ)入道(にふだう)させたまへりこそ。
御年十九。
世をもたせたまふこと二年。
その後(のち)二十二年おはしましき。

[現代語訳]

次の帝は花山院(かさんいん)天皇と申し上げました。
冷泉院の第一皇子です。
母君は贈皇后宮(ぞうこうごうぐう)懐子(かいし)と申し上げます。
永観二年八月二十八日、(花山院は)天皇に即位なされました。
御年(おんとし)十七。
寛和(かんな)二年丙犬(ひのえいぬ)六月二十二日の夜、何とも驚いたことでございますが、(花山院は)人にもお知らせにならず、こっそりと花山寺(はなやまてら)にお出ましになられ、御出家し、入道(にゅうどう)になってしまわれたのです。
御年十九(のことです)。
(天皇としての)ご在位は二年でした。
ご出家の後、二十二年間ご存命でいらっしゃいました。

[古文]

あはれなることは、おりおはしましける夜(よ)は藤壺(ふじつぼ)の上の御局(みつぼね)の小戸(こど)より出でさせたまひけるに、有明(ありあけ)の月の明かかりければ、
「顕証(けんしよう)にこそありけれ。
いかがすべらむ」
と仰(おほ)せられけるを、
「さりとて、とまらせたまふべきやうはべらず。
神璽(しんし)・宝剣(ほうけん)わたりたまひぬるは」
と粟田殿(あわたどの)のさわがし申したまひけるは、
まだ帝出でさせおはしまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮(とうぐう)の御方にわたしたてまつりたまひてければ、かへり入らせたまはむことはあるまじく思(おぼ)して、しか申させたまひけるとぞ。

[現代語訳]

しみじみと心が痛みますのは、ご退位なさりました夜、藤壺(ふじつぼ)の上の御局(みつぼね)の小さな戸からお出ましになられたとき、有明(ありあけ)の月が明るかったので、
「あまりにも明るい(丸見えで気が引ける)。
どうしたらよかろう」
とおっしゃられたのですが、
「そうはおっしゃられましても、おやめになられるわけにもまいりません。
神璽(しんし)も宝剣(ほうけん)も(すでに皇太子のもとに)おわたりになっておりますからには」
と粟田殿(あわたどの=藤原道兼・ふじわらのみちかね)がせきたて申し上げたのは、
まだ天皇がお出ましになられない前に、粟田殿がみずから、皇太子の御方にお渡し申し上げてしまわれたので、(天皇が宮中に)お帰りあそばすようなことがあってはならないことだろうと思って、こう申し上げなさったということです。

[古文]

さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月のかほにむら雲のかかりて、すこしくらがりゆきければ、
「わが出家(すけ)は成就(じやうじゆ)するなりけり」
と仰せられて、歩み出でさせたまふほどに、弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)の御文(ふみ)の、日頃破り残して御身も放(はな)たず御覧(ごらん)じけるを思し召し出でて、
「しばし」
とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の、
「いかにかくは思し召しならせおはしますぬるぞ。
ただ今過ぎば、おのづから障(さは)りも出でまうでなむ」
と、そら泣きしたまひけるは。

[現代語訳]

はっきりと明るい月の光をまぶしくお思いになっていらっしゃるうちに、月にむら雲がかかり、少し暗くなっていったので、
「わが出家は(必ず)成就することだろう」
とおっしゃられて、お歩き出されますと、弘徽殿(こきでん)の女御(にょうご)の御手紙で、普段、破り捨てず、御身から離さずに、御覧になっていた手紙を思い出されて、
「しばらく待て」
とて、(手紙を)取りにお入りになりましたそのときに、粟田殿は、
「どうしてそのようにお思いになられるのでありますか。
ただ今(この機会を)逃しては、おのずと差し障りが出てまいりましょう」
と、うそ泣きなさったのですが。


[古文]
        
さて、土御門(つちみかど)より東(ひんがし)ざまに率(ゐ)て出(いだ)だしまゐらせたまふに、晴明(せいめい)が家の前をわたらせたまへば、みづからの声にて、手をおびただしく、はたはたと打ちて、
「帝王(みかど)おりさせたまふと見ゆる天変(てんぺん)ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。
まゐりて奏(そう)せむ。
車に装束(そうぞく)とうせよ」
といふ声聞かせたひけむ、さりともあはれに思(おぼ)し召(め)しけむかし。
「且(かつ)、式神(しきがみ)一人内裏(だいり)にまゐれ」
と申しければ、目には見えぬものの戸をおしあけて、御後(うしろ)をや見まゐらせけむ、
「ただ今これより過ぎさせおはしますめり」
といらへけりとかや。
その家、土御門(つちみかど)町口(まちぐち)なれば、御道なり。

[現代語訳]
        
さて、土御門(つちみかど)を東の方へ(天皇を)お連れ出し申し上げたとき、安倍晴明(あべのせいめい 陰陽師)の家の前をお通りになりましたが、清明自身の声がして、手を激しくぱちぱちと打って、
「帝(みかど)がご退位あそばされると思われる天の異変があったが、すでに事はなってしまったとみえるようだ。
(宮中に)参上して奏上しよう。
車に支度をせよ」
といふ声をお聞きになられた、そのときの(天皇の)お心は感慨無量に思われたことでありましょう。
「とりあえず、式神(しきがみ)一人が内裏(だいり)に参上せよ」
と(清明が)申し上げると、人の目には見えない何物かが戸を押し開けて、(天皇の)御後ろ姿をお見申し上げたのでしょう、
「ただ今、ここをお通りになられているようです」
と答えたということです。
清明の家は、土御門(つちみかど)町口(まちぐち)ですので、天皇がお通りになる道であります。

[古文]

花山寺(はなやまでら)におはしましつきて、御髪(みぐし)おろさせたまひて後(のち)にぞ、粟田殿(あはたどの)は、
「まかり出でて、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内(あない)申して、かならずまゐりはべらむ」
と申したまひければ、
「朕(われ)をば謀(はか)るなりけり」
とてこそ泣かせたまひけれ。
あはれにかなしきことなりな。
日頃(ひごろ)、よく、
「御弟子(でし)にてさぶらはむ」
と契りて、すかし申したまひけむがおそろしさよ。
東三条殿(とうさんでうどの)は、
「もしさることやしたまふ」
とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武士(むさ)たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。
京のほどはかくれて、堤(つつみ)の辺(わたり)よりぞうち出でまゐりける。
寺などにては、
「もし、おして人などやなしたてまつる」
と一尺(ひとさく)ばかりの刀どもを抜きかけてぞまもり申する。
(花山院)

[現代語訳]

花山寺にご到着なられて、ご剃髪なされてからですが、粟田殿は、
「ちょっとご退出して、(父の)大臣(おとど)にも、出家前の姿をもう一度見せ、これこれと(出家する)事情を申し上げて、必ず参上しましょう」
と申し上げられたので、
「私をだましたのであったな」
と(おっしゃって)お泣きあそばされたということです。
なんともしみじみと悲しきことですよ。
日頃、(粟田殿は)よく、
「(私も出家して)お弟子として(おそばに)仕えましょう」
と約束されながら、だまし申し上げなさったのは恐ろしいことですよ。
東三条殿(ひがしさんじょうどの=粟田殿の父兼家)は、
「もしや(粟田殿が)出家なされるのかと」
と気にかけ、こんなときにふさわしい思慮分別のある人たちの中から、なんの誰それという有名な源氏の武士たちを、ご警護にそえられたということです。
(武士たちは)京の町中は隠れて、(加茂川の)堤のあたりから姿をあらわして(お供して)いったそうです。
寺などでは、
「もしや、無理じいして誰かが(粟田殿を)剃髪させ申し上げるのではないか」
と(用心して)一尺ばかりの刀を抜きかけてお守り申し上げていたということです。
(花山院)




源氏物語 「光源氏の誕生」 現代語訳

[訳:蓬田(よもぎた)修一]

[原文]

いづれの御時(おほんとき)にか、女御(にようご)、更衣(かうい)あまたさぶらひたまひけるなかに、
いとやむごとなき際(きは)にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方(おほんかた)がた、
めざましきものにおとしめそねみたまふ。
同じほど、それより下臈(げらふ)の更衣たちは、ましてやすからず。
朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、
恨みを負ふ積もりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、
もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、
人のそしりをもえ憚(はばか)らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。
上達部(かむだちめ)、上人(うへびと)なども、あいなく目をそばめつつ、
いとまばゆき人の御おぼえなり。
唐土(もろこし)にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれと、
やうやう天(あめ)の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、
楊貴妃(やうきひ)の例も引き出でつべくなりゆくに、
いとはしたなきこと多かれど、
かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにて交じらひたまふ。

[現代語訳]

どの帝の御代(みよ)であったか、女御や更衣がたくさんお仕えしていた中に、
それほど重々しい家柄ではない方で、目立って帝のご寵愛を受けていらっしゃった方がいた。
(宮仕えの)初めから、我こそは(帝のご寵愛を受ける自信がある)と思って宮中にお上がりになった方々は、
(この更衣が)目に余り気に入らず、さげすみ、うらやんで憎らしくお思いになる。
同じ身分、あるいはそれより低い身分の更衣たちは、なおさら気持ちがおだやかでない。
朝夕の宮仕えにつけても、人の気をもませてばかりいて、
恨みを受けることが積もり積もった結果であろうか、すっかり病気がちになってしまった。
(更衣が)何となく頼りなげで里下がりしがちになるのを、(帝は)ますます不憫だとお思いになって、
人の非難をもはばかることなく、世の中の話の種にもなってしまいそうなもてなさり方である。
上達部(かんだちめ)や殿上人(てんじょうびと=清涼殿の殿上の間に昇ることを許された貴族。四位と五位で特に許された人と六位蔵人)なども、困ったことだと目をそむけながら、
ほんとうに見ていられないほどのご寵愛ぶりである。
中国でも、こうしたことが始まりとなって、世の中が乱れ、ひどいことになったのだと、
だんだんと世間でも苦々しいことだと、人々の扱いかねる悩みの種となって、
楊貴妃(ようきひ)の例(=唐の玄宗皇帝が楊貴妃への愛に溺れて世の中が乱れたという先例)をも持ち出しかねないような状況になっていく。
(更衣は)いたたまれないほどにきまりが悪い思いをすることが多いのだけれど、
恐れ多い(帝の)心遣いがたぐいないのを頼みに宮仕えをしていらっしゃる。


[原文]

父の大納言は亡くなりて、
母北の方なむいにしへの人のよしあるにて、
親うち具し、さしあたりて世のおぼえはなやかなる御方がたにもいたう劣らず、
なにごとの儀式をももてなしたまひけれど、
とりたててはかばかしき後ろ見しなければ、
事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。

[現代語訳]

(更衣の)父の大納言は亡くなり、
母の北の方というのが古風な教養のある人で(あったので)、
両親がふたり揃い、当面、世間の信頼がはなやかな方々にも、たいしてひけをとらず、
どのような儀式(=宮中の行事やしきたり)も取り計らったけれど、
これといって格別な後見人(=経済的、政治的な後ろ盾)がいないので、
あらたまったことがあるときは、やはり頼るあてがなく心細げな様子である。

[原文]

先の世にも御契りや深かりけむ、
世になく清らなる玉の男御子(をのこみこ)さへ生まれたまひぬ。
いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、
めづらかなる児(ちご)の御容貌(かたち)なり。
一の皇子(みこ)は、右大臣の女御の御腹にて、
寄せ重く、疑ひなきまうけの君と、世にもてかしづききこゆれど、
この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、
おほかたのやむごとなき御思ひにて、
この君をば、私物(わたくしもの)に思ほしかしづきたまふこと限りなし。

[現代語訳]

(帝とこの更衣とは)前世でもご宿縁が深かったのだろうか、
世にまたとない、気品があり清らかで美しい玉のような皇子までがご誕生なされた。
(帝は皇子を)まだかまだかと待ち遠しくお思いになられ、
急いで(宮中に皇子を)お召しになられてご覧になると、
これまでに見たこともないすぐれた器量である。
第一の皇子は、右大臣家出身の女御がお生みになられた方で、
後ろ盾がしっかりしていて、疑いもないお世継ぎの君と、
世間の人たちは大切にお世話をなさるけれど、
(生まれたばかりの弟宮の)お美しさにはとてもお並びようがないので、
(帝は第一の皇子のことは公人として)ひととおりの大切な方とお思いになるだけで、
弟君のほうを、私人としての大切な子というお気持ちでご寵愛なさること限りがない。